羽黒派古修験道
修験道の概念
日本で発生し成立した山の宗教。神霊の宿る山岳を行場とし、自然崇拝を根幹とする呪術的な日本固有の信仰 (古神道)を、ありのままの自然を究極の仏の世界と捉え、山の大自然の中に身を投じ自然と一体化する(密教)という世界観によって体系づけ、全てに仏性がある(法華経)という自覚と、往生思想(浄土教)を融合し、呪術(陰陽道)を用い、神仙術(道教)を駆使することによって、除災・招福・治病・延寿の呪禁力を発揮する宗教。
修験道の思想と目的
修験道は現実をそのままを究極の真理とみる現実肯定主義である。そのあらわれとして、修験者の目的は即身成仏(そくしんじょうぶつ)することで、この身このまま現世において悟りを開き、生きとし生けるもののために救いの手をさしのべられる人間になることである。
*近年まで国宝羽黒山五重塔には、自然のままの衆生のあり方を示す三身の額が掲げられていた。
・法身(ほっしん)-真理そのもの
・報身(ほうじん)-悟りの結果得た身
・応身(おうじん)-衆生救済のために仮にあらわれた姿
修験道の語彙
・験-祈祷の結果としてのしるし(即身成仏したことの証)
・修-験を得るために努力精進し、霊験力や呪術力を身につけること。
・道-修行の方法を研究し、実践するための最高の手段と方法。
・修-験を得るために努力精進し、霊験力や呪術力を身につけること。
・道-修行の方法を研究し、実践するための最高の手段と方法。
道という理由
一宗をたてるためには、それにふさわしい独自の教義・教法をもたなければならない。しかし、修験道は神道・密教・陰陽道・道教などを取り入れ、それらの教説や教義と習合して成立していることから、独自の教義や教法はなく、あくまでも目的を達成するための手段と方法を重んじる
修験道の権現信仰と威神力
霊山を行場とする修験道では神仏を一体ととらえ、山を守護するものを権現として拝した。未木文美士氏は『日本仏教史』の中で、神仏習合の展開において神の仏への従属形態を、1神は迷える存在であり、仏の救済を必要とする。(神宮寺)2神は仏法を守護する。(護法神)3神は仏が衆生救済のために姿を変えて現われた。(権現・垂迹)以上の3通りとし、1と2が奈良時代からはじまるのに対し、3はやや遅れてはじまり、その形態は神仏を一体ととらえるもので、平安中期になると「権現」「垂迹」という語が見られる。そして平安後期からは、どの神がどの仏の垂迹であるかが個別的に確定してゆく、と記している。またその威神力について、戸川安章氏は『新版出羽三山修験道の研究』で、修験者は神と仏の威神力を「応現」といい、神仏は虚空と同体だから一定の住所はなく、衆生の中心に住んで影の形に従うように常に離れない。しかも、信仰を持たないものにはその姿は見えず、加護も得られないが、信ずる心さえあれば、それぞれの願いに応じて利益を与え給う。それゆえ、神は変幻自在の力をそなえている。しかし、居ながらにして拝するよりも、神々の本来の住所に参上する方が礼儀にもかない、利益も多い、と説明している。
出羽三山における権現
羽黒山-・聖観世音菩薩(仏)・伊氐波神(産土神)・稲倉御魂命(穀物神)
月 山-・阿弥陀如来(仏)・月読神(農耕神)
湯殿山-・大日如来(仏)・大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神)
・少彦名命(医薬神)
月 山-・阿弥陀如来(仏)・月読神(農耕神)
湯殿山-・大日如来(仏)・大山祇神(山の神)・大己貴命(建国神)
・少彦名命(医薬神)
開祖・能除仙(のうじょせん)
出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。
江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。
羽黒派とは
修験道は中世以来、天台・真言・華厳などの諸宗と深く関わりをもっていたが、しだいに教団的組織を整えるようになり、のちに本山派(天台系)・当山派(真言系)と発展し、鎌倉時代には羽黒山にも巨大な修験者の教団が成立していたことが、『吾妻鏡』の承元三年(1209)五月五日の条によって知ることができる。
古修験道と呼ぶ理由
開祖である能除仙は第32代崇峻天皇の皇子で、大峰修験や熊野修験が開祖と仰ぐ役行者(7・8世紀頃の呪術者)より時代が早く、身分も貴い方である。また修験道の最高の法儀である柴燈護摩は、わが開祖が役行者に授けたものであるという伝承から、羽黒山こそ修験道の根本であるとして「古修験道」と称している。