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四季の峰

修験道の儀礼

羽黒山では明治五年(1872)の修験宗廃止令が出されるまで四季の峰といって、年に四回入峰修行(にゅうぶしゅぎょう)が行われていた。入峰は山中を意味し、
修行は胎内の行である。死霊が父の精を受けて母の胎内に宿り、その生命が修行を通して神の霊威をいただき成長し、生まれ変わるという死と再生の儀礼である。
 

春の峰

 
冬の峰で育てた穀霊を大先達寺の僧侶だけが集まってお祭りし、稲作の豊作を祈願する予祝行事で、新春を寿ぐ儀礼であった。春の峰は山上の寺院だけで行われていたので、明治維新後廃絶した。

夏の峰

道者自身が擬死再生の儀礼を通し、自己の生命の若返りをはかるとともに、祖霊をまつりなぐさめる峰である。
出羽三山は主峰月山を中心に、北方の端に羽黒山、西南方の尾根上に湯殿山をもって三山とし、明治の神仏分離までは三所権現と呼んで拝した。この三山が出羽三山と呼ばれるようになるのは元亀・天正(1570~92)の頃からで、それ以前は羽黒山・月山・葉山(月山の山脈が東に伸びた山)をもって三山とし、湯殿山を三山の総奥の院としていた。そしてこの三山を駈ける修行を三関三渡の行(さんかんさんどのぎょう)といい、夏峰の極意とされた。神仏習合の時代、羽黒山は現世の安穏を約束する観音菩薩の補陀落浄土、月山は死者の赴く過去世にあって衆生を導く阿弥陀如来の極楽浄土、葉山は未来永劫にわたって衆生の苦悩を除く薬師如来の瑠璃光浄土で、各浄土の仏の加護と引導によってそれぞれの関を渡り、現在・過去・未来のすべてが凝縮された大日如来の密厳浄土(湯殿山)へ赴き即身成仏すると説く。山中においては現在→過去(死後)→未来(再生)と流れ、通常の過去(生前)→現在→未来(死後)という秩序とは異なる時空で展開する。
この時期は諸国からの参詣道者が三山を駈けるが、道者は死と葬送の儀礼を郷里で済ませ、死者の出立である白衣を身に着け三山を目指す。道中を死出の旅路とし、羽黒山麓の宿坊で一夜参籠(一の宿)するのは、父の精が母の胎内に宿ったと観念するものである。月山山中での参籠(二の宿)において小屋の骨組みが見えるのは、胎児が胎内にあって母の肋骨に護られていると観想するもの。そして湯殿山のご神体を拝して大網や七五三掛、大井沢、本道寺などでの参籠(三の宿)は、めでたく誕生したと観念することだという。これを結縁入峰(けちえんにゅうぶ)と呼び、自己の生命の若返りの修行である。また、夏峰は祖霊をまつりなぐさめる行である。山は神域であると同時に、よみがえりの時を待つ死者の霊魂が鎮まる場所でもある。死後の霊魂は集落に近い山へ往き、子孫の供養を受けて浄化され、年月を経て祖霊となって高い山に昇るとされる。また供養された霊魂は和魂として子孫に恵みを与え、祭られない霊魂は荒魂となって災いを及ぼすとされ、それゆえ三山の各山には御霊を祭る霊祭所が設けられている。神仏習合の時代、七月十三日の夜に執行代は月山小屋の者と共に、月山本宮の採燈壇で採燈護摩を修し、三界万霊の成仏を祈った後祖霊を子孫の元に送り、帰る家のない祖霊のために施餓鬼を行った。現在は八月十三日の夜、本宮の北側で柴燈護摩を修し死霊供養を行う。これは山中の死霊を祭りその怨霊を晴らすことにより天下の平和が保たれ、ひいては豊穣をもたらすという古よりの信仰によるものである。ゆえに夏峰の道者は月山で祖霊供養を行う。
 

秋の峰

修験者となるための修行で、衆生済度に重きを置く。そのため専門の修験者を養成する行で、諸国山伏出世の峰と呼ばれる。出世は俗世間を脱するという意味であるが、秋峰を重ねることによって位階昇進の許しを受けることから、立身出世としての意味をも含んでいる。
 秋峰もまた三関三渡の行であらわされる。その説明を明治以前の流れにあてはめてみると、一の宿(南谷)は母の胎内(過去)とされ、ここで修行をすることが人生の第一関門。胎内修行を終え、二の宿(吹越)の胎外(現世)へ渡ること一度。
これを胎内の海を渡るといい、南谷から吹越までの道は大渡り道(おおわたりみち)と呼ばれている。こうして二の宿の胎外に生まれ出て修行することが第二関門。現世での生における苦しみの関を乗り越え、三の宿(大満)の死後の世界(未来世)へ渡ること一度。これを現在生の海を渡るといい、吹越から大満までの間には海道坂(かいどうざか)という坂道がある。こうして修行者は三の宿に移るのであるが、その前に二の宿で柴燈護摩を修し、自分で自分の葬式(逆修葬儀)をする。死者となった修行者は月山の北の裾野を流れる赤沢川を四十八度渡り、よみがえりのときを待つ精霊が鎮まる三鈷沢(さんこざわ)へと赴く。それは我と我がたましいを受け取るためともいう。こうして精霊を体にいわい込め、三の宿にとどまることが第三関門。そして未来死海を渡ること一度といって、過去・現在・未来の三世を超越し、永遠の生命を得ることである。こうして山を下るが、これを出生と書いてデナリと読む。まさに新しい生命の誕生であり再生を意味する。
いにしえ修行期間は75日であったが、いつ頃からか30日になり、寛文9年(1669)には15日間に短縮され、明治44年(1911)からは10日間、昭和24年(1949)から7日間となった。秋峰の修行内容は親兄弟たりとも語ってはならないとされているが、これは胎内でのことゆえ記憶になく、語ることができないというのが本来である。
 

冬の峰

稲を主とする五穀に穀霊の発現を待つための物忌みの行である。この行を行うのは羽黒山麓手向村の修験者である。松聖と呼ばれる二人の山伏が自宅に祭壇を構え、田小屋に模った興屋聖(こうやひじり)に五穀を納め、99日間にわたりひたすら穀霊の憑依を祈り籠りの行を行い、満願の百日目にあたる大晦日の夜、結果としての験力が試される。
松聖の役に就ける者は限られ、明治時代までは次のような条件が備わっていなければならなかった。①336坊の妻帯修験の家に生まれる。②太業といって、生まれるとすぐに承認の手続きをとる。③数えの15歳で秋の峰に入り修験者になる。④羽黒山上の本社の堂番を勤める。⑤阿闍梨講に勤仕して、阿闍梨、権少僧都の位が許される。以上①から⑤を満たした者の中で、太業に加わった年数の一番長い人が位上(いじょう)松聖、次の人が先途(せんど)松聖に任じられた。松聖を勤めた者は修験者の最高位である権大僧都に補せられた。このように松聖になれる人は数々の行を経験した人に限られ、冬の峰が農耕地帯の人々にとっていかに重要な峰であるかが伺える。
 明治以降冬の峰の結願行事は松例祭(しょうれいさい)と呼ばれ今に受け継がれている。現在の松例祭の一連の流れを見ると、午後3時‐綱まき神事。これは各松聖に分属された若者たちによって、農耕に災いを及ぼす疫鬼に見立てた大松明が切り刻まれ、参拝者に投げ与えられる。これを家の軒先に下げると悪魔がよってこないといわれる。午後6時‐大松明まるき直し。これは切り刻まれた疫鬼が再び息を吹き返したので、焼払う場所まで引き出すためにまるき直す。午後8時-綱さばき。大松明を引き出すための綱で、大松明のどの場所に掛けるかによって綱の価値が決まることから、どこに掛けられる綱をどの町に与えるかを決める。午後9時-験競べ。位上と先途に付き従う山伏が6人ずつ左右に分かれ、烏と兎に見立て験力を競い合う。引き続き大松明引き。庭上を羽黒修験の敷地に見立て、疫鬼である大松明を敷地の外に引き出して焼払うもので、このときの火の勢いと燃え具合で勝敗が決まる。午前0時-国分け神事。これは羽黒の領土を確認するもので、これを終えると火の打ち替え神事がある。これは、疫鬼を焼いたために火は穢れ勢いも弱まったので、新しい清浄で力強い火を切り出し、天下泰平・国土安穏を祈る。昇神祭の後穀霊を孕んだ五穀を松聖が祈願所とした補屋の土間を国土に見立てて撒く。五穀豊穣の祈願とともに、米は邪気を払い、天地の長久と福徳円満を招く呪力を持つものとして、その威力が発揮されることを祈るのである。
 
出羽三山神社(羽黒山)
0235-62-2355
午前8:30~午後5:00まで
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